フェティシズムとか一目惚れ、というよりインプリンティング

「いらっしゃいませー」
友人の誘いでアルバイトをはじめたのはたしか二十歳のとき。
某ショッピングモール内のフードコートにあるデザート系を扱う飲食店だった。

この頃のわたしは一人の時間をこよなく愛し、他者との接触に興味がなく、極力家から出たくはなかったので、勤務は週一回程度。

…果たしてアルバイトの意味あったのかしら、わたし的にも店的にも、と今になっては思う。

ある日のこと、どうにも客足が鈍くて店頭で暇を持て余していると、白いコックシャツの袖を腕捲りし、腰に黒いビストロエプロンを巻いた細身の男性がやって来た。
「お疲れ様です。これください」とグレープジュースの入ったミキサーを指差すので、一度攪拌してからカップに注ぎ差し出す。
お金を受け取り 、お釣りと一緒にポイントカードを渡す。
要らないかもしれませんがルールなんでー、と心の中で思っていると、
「ポイントためますね」と言って
とびっきりの笑顔を残して店を去っていった。
さ、さわやか…。

そのままお向かいの洋食屋に消えていったので、なるほどそこの店員なのかと納得する。

フードコート内の店舗に勤務する店員が休憩時間に互いの店を利用するのは珍しくない。
けれどわたしの勤務していた店にやってくるのは、男性アルバイトとの接触目当ての女子高生とか(あからさま)、また別の男性アルバイトとのおしゃべり目当ての女子大生とか(あからさま)そういう類いばかりだったので、打算抜きで買いにやって来る人に遭遇したのはこれが初めてだった。

結局、その後わたしの勤務中に再度店にやって来ることはなかったけれど、なんと言ってもお向かいさんなので、まれに店頭で接客していたりすると(おそらく本来はキッチン担当)自然とその姿を目が追う。
見かけない日は、今日はシフト入ってないんだなーとぼんやり思う。
ついこの間までその存在すら認識していなかったのに。

そんなことがしばらく続いた後、店でクローズ作業をしていると、大きなごみ袋をさげた男女二人が向かいの洋食屋から出てくる。
早々にクローズ作業を終えて最後のごみ捨てに行くのだろう。
男性には見覚えがある…。
あ、あの人だ!でも、でも。
どうやらその洋食屋ではショッピングモール所有のロッカールームは使用せずにバックヤードで着替えをする仕組みらしく、現れたその姿はコック服ではなくて私服だった。

なんとも言えない微妙なガッカリ感、見たくなかった感。
特別不可思議な装いだったわけではないし、仮にものすごくお洒落であったとしても結果は同じだっただろう。
だって、きちんと目の長袖シャツを腕捲りするのってカッコいい。
ストンとした細い腰に巻くビストロエプロンってカッコいい。

それから程なくして、その男性の姿を見かけることはなくなり、これはタイミングが合わないのではなくて多分店を辞めてしまったのだなぁ、と気付いて、残念だなって少しだけ思った。

若かりし日の単純だったわたしの思い出。
でも今だに腕捲りとエプロンは最強だと思うし不意討ちには弱い。

過日

子供が産まれた。
私が、産んだわけだけども。

妊娠中も出産時もトラブル続発で、でもそれらは何も珍しい事柄ではないと知って、あぁ、妊娠・出産って本当に命がけなのねーと心の底から思った。

もともと子供好きというわけではない。
子供だから好きという感覚がなく、
子供を見て無条件に「かわいい!!」と口にする人の気持ちが理解できない。
子供=かわいいじゃないでしょ?かわいいコもいれば不細工なコもいるでしょ?子供といえども好きかどうかはそのコの人間性次第であって…と本気で思っていたっけ。

そんなわたしも、子供を産んだのだ。
運良く恵まれて、命かけて。

夫婦二人の生活は終わってしまって、それは少し悲しくもあるけれど、これからは家族三人の生活が始まって、それはそれできっと楽しいに違いない。

形は変わってしまうかもしれないけれど、変わることは決して悪いことじゃないはずだ。

気楽さが失われても、悩まされることが増えても、それを上回る喜びが待っているのだ、きっと。

だってだって、命かけたんだもの!
痛くて辛くて、泣き叫びながらやっとの思いで産んだんだもの!

そして、たとえ目が小さかろうが鼻が低かろうが髪が薄かろうが、我が子はやっぱりかわいいんだもの!

私は今、一番遠いところ

大学に通っていた頃、全くの専門外だったけれど、単位の都合で哲学の講義を選択していた。

先生はタートルネックのセーターを着て、髪をキチンと整えた人で、私はそのいかにも哲学を教えそうな風貌が割と気に入っていたし、講義の内容も悪くなかったので、さぼったりせずに毎度しっかり参加していた。

「眠くなったら眠って、おなかが空いたらすぐにご飯を食べて、そういうのを自由だと思っているかもしれないけど、それは自由ではないから」

講義自体は生命倫理中心の内容だったから、雑談だったかもしれないし、わき道に逸れたのかもしれないが、ある日先生はそんな話をした。

欲求に抗えずに、それに素直に従っているだけなのだからそれは自由ではないのだという。
いつ眠りいつ食べるのかを、自らの欲求を無視して自在に決定できればそれは自由なのだという。

なるほどー、と思った。
オレは自由だ!何にも縛られないぜ!と嘯いて本能の赴くままに生きている人は、実は自由とは一番遠いところにいるのだ。
本能にまんまと踊らされ、操られているだけで。

己の欲求を滅却して本能と戦う、それが自由を手に入れる手段ということか。
でもそれを突き詰めては生き物は生きて行けないわけで…。
むむむ。

哲学的自由って難しいんだなー、って思ったっけ。

すべてがわかるわけではないの

キーワードをパパっと入力さえすれば目的の対象を簡単に検索し、知ることができる。
インターネットって便利、便利な世の中になったものだなぁ。

18才、女子高生。
制服に合わせる靴下はルーズソックスがまだまだ主流で、でも、紺のハイソ派もちらほら現れ始めた時代。

夏休みを利用して、3泊4日の日程でサッカー観戦旅行に出かけた私と友人たちは、1日目を宿探しに費やし、2日目はせっかくだからと練習場に足を運ぶことにした。

目的はサッカーであって観光ではなかったから、他にすることもなくて、朝早くにタクシーをつかまえ練習場へと向かう。

今みたいに猛暑猛暑と騒がれる頃ではなかったから、よい天気の中、まだ誰もいない練習場で友人たちとのんびり過ごすことに。

ふと足元をみると、地面にあいた巣穴を出たり入ったり小さなアリたちがせわしなく働き回っている。

アリなんて珍しくもなんともないんだけど、何の気なしにしゃがみこんで眺めていると、その中の1匹が、ヘン。
その他大勢のアリたちとおんなじようにワシャワシャしているんだけど、明らかに、ヘン。

他のアリたちよりもほんの少しだけ大きくて、やたら艶っと丸っと黒っとしていて、触角が常に高速で振動していて、そして、左右の前足1本ずつがなぜか「ハサミ」になっている。
ザリガニのハサミみたいなポッテリしたハサミ。

…ハサミ??

地元では見たことがなかったから、あぁ、土地が違うと珍しい生き物に出会うこともあるんだなあ、と持参していたお手製旅行しおりの裏表紙にそのアリの姿をスケッチしてみた。
カメラもあったけれど、デジタルではなかったから限りあるフイルムを消費しようとは思わなかったんだと思う。

それからサッカー三昧な旅行を満喫し、地元に戻ってからそのアリについて調べてみた。
図書館で。図鑑で。

でもどれだけ調べてもそんなアリは見当たらなくて、よっぽどマニアックな図鑑じゃないと載ってないのかもな、こんな小さな図書館では限界かも、と思ってあっさり諦めた。

そして今。
たくさんの図鑑を入手せずとも楽に調べものができる時代となり、私はせっせと入力をする。
あらゆるキーワードを、思い付く限りの組み合わせで。

enterボタンをクリックし、ずらりと表示されるおびただしい数の昆虫画像。
虫、苦手な人はヒイってなるだろう。

1つ1つ丁寧に見てみるけれど、あのアリはどこにもいない。
画像検索だけではなく、Q&A的なものも調べてみるけれど、どこにもいない。

うぅん。

今まで、玉虫色のトカゲとか、白いレース状のひだをまとった虫とか、リビングのモンステラの鉢に突然生えたレモン色のキノコとか、何でも検索して答えを得ることができたというのに。

どれもこれも、私が見たあの日のアリではない。
ひょっとしたらそもそもアリではなかったのかもと思って検索範囲を広げてみるもヒットせず。
いや、アリだと思うけどね。

この初めての友人との旅行で最も色濃く印象に残っているのはアリとの出会いで、肝心のサッカーについてはあんまり覚えていない程だというのに、結局アリの正体は暴けずか。

残念。

この先、またうんと時間が経って、今よりももっとウルトラスーパー便利な方法で物事を調べることができる時代へと移ったならば、その時にはまた調べてみようかな。

少女の日の思い出

その昔、私がまだ高校生だったころ、同じクラスの女の子からとっても重大な告白をされたことがある。

それは、ある日の授業中、その子から回ってきた手紙に何でもないことのようにさらりとしたためられていた。

クラスメイトととして会話をすることはあったけれど、私とその子は特別に親しかったわけではない。

その子には他にもっと仲の良い友達がいたし、それは私も同じだった。

一番話すべき人には話せない。
一番身近な人にも話せない。

かといって、仲の良い友達に打ち明けることでついてくる「優しさ」は要らなかったのだろう。

事実、私はその子からの告白に対して的外れな反応しかできず、手紙のやりとりだけで完結し、その後それについてお互い触れることもしなかった。

今ならわかる。

十代の女の子がひとりで抱え込むにしてはちょっとばかり重たくて、ただ、外に吐き出したかったんだな。

高校を卒業してから一度も会っていないし、もう名前さえ忘れてしまったけれど、今でも時々こうして思い出す。

どこかで幸せに暮らしているかしら?って。

愛の行方

猫が好き。
たまらなく好き。

好きすぎて好きすぎて、この世に存在するすべての猫が幸せに人生を全うできないのであれば、将来的には絶滅しちゃってほしいと願うくらいに好き。

この世から猫が消え、その愛らしい姿を愛でることができなくなるのは悲しいことだけれど、この世のどこかに辛い思いをする猫がたとえ一匹でも存在することのほうがはるかに悲しく耐え難い。

例えばドラマでも映画でも、小説でも漫画でも、つくりものと分かっていても、猫が悲しい目に合うのは心が痛く、張り裂けそう。

なので、今存在する猫たちがその寿命を幸福に終えて、猫の世界も少子化が進んで子孫数が徐々に先細りになって、やがて途絶えいくのがいい。
あくまでも自然に。

という話を友人にしたところ、
キテるねー!!
とコメントいただいたっけ。

えへ。

しかしこの考えの根底にあるのはただただ弱さだ。
それは嫌という程わかっているのよ。